砂糖伝播の歴史

第1章 世界の砂糖伝播の歴史

1 砂糖の起源

砂糖の伝播の拠点はインドとされています。
砂糖の英語名「SUGAR」の語源は、古代インドの言語であるサンスクリット語の「SARCARA」とされています。また、砂糖に関する記述が、紀元前5世紀頃のインドの仏典にみられます。
そして、紀元前327年、当時のマケドニア王国のアレキサンダー国王がインドに遠征したときの記録に「蜂蜜のように甘い汁のとれる葦(あし)がある」、「噛むと砕ける甘い石がある」と記されています。前者は甘蔗(さとうきび)、後者は砂糖のことではないかと推測されます。
インドの甘蔗や砂糖は、西はペルシャ(現在のイラン)やエジプト、東は中国へと伝えられていきました。

2 世界への砂糖の伝播

1ヨーロッパ

ヨーロッパ地域への砂糖の伝播は、11世紀から13世紀にかけて、キリスト教の聖地エルサレムをイスラム教徒から奪還するために派遣された軍隊「十字軍」が、その帰路にコーヒーなどとともに甘蔗を持ち帰ったのが始まりとされています。
その後、甘蔗は温暖な気候の地中海で栽培されて、砂糖が普及されていったとみられています。当時の絵画に、薬を扱う店に置かれていた砂糖が描かれていることから、貴重な存在であったことが窺われます。

図1 十字軍とその帰国を迎える人々
馬車に甘蔗が積まれている。

2アジア・オセアニア

インドから東方への砂糖伝播を示す記述は、13世紀、中国を訪れたイタリアの商人マルコ・ポーロが著した「東方見聞録」にみられます。中国では5世紀頃には既に砂糖が作られていたようですが、東方見聞録には「精製した砂糖が作られていた」との記述があり、マルコ・ポーロは驚嘆したといいます。
当時の中国・元国皇帝のフビライ・ハンは、最も進んでいたアラビア文化を積極的に取り入れており、砂糖精製についても、草木の灰を使用した砂糖精製の技術を学び、成果を上げたとされています。
その後、17世紀に入ると、オランダが台湾とジャワ島で砂糖産業に着手し、フィリピン、オーストラリア、フィジー、ハワイへと拡がっていきました。

3アメリカ大陸

アメリカ大陸への伝播は15世紀末、イタリアの航海者コロンブスによるとされています。
1492年、西インド諸島に到着したコロンブスは、翌年再び航海に出ます。その際、自国から甘蔗を持ち出し、地中海沿岸と気候の似通った、西インド諸島の1つ、イスパニオラ島に移植しました。
コロンブスの航海を契機に、ヨーロッパの国々は競うようにアメリカ大陸に渡り、その後の北米南部・中南米地域への大規模な砂糖プランテーションへとつながっていくことになりますが、そこには植民地支配という歴史があります。
スペイン、イギリス、フランス、ポルトガル、オランダといったヨーロッパ各国は、相次いで南北アメリカ大陸に赴いて植民地化し、甘蔗栽培、製糖に乗り出しました。

図2 16世紀後半 シチリア島での砂糖づくりの絵図
甘蔗を刻んだり、煮詰めたりする様子。右下の大砲の状のものができた砂糖。

砂糖プランテーションは、ブラジル、プエルトリコ、ジャマイカなど中南米地域にも広がっていきました。一方、19世紀になり、米国の砂糖産業は、南北戦争により打撃を受け、これに取って代わったキューバが後に大産糖国になりました。

3 てん菜からの砂糖生産の広まり

甘蔗と並ぶ砂糖の主原料、てん菜からの砂糖製造技術が確立したのは18世紀です。てん菜は元々、飼料として利用されていた作物でしたが、1747年、ドイツの科学者マルク・グラーフがてん菜からの砂糖抽出に成功しました。その後、彼の弟子であったアハルドによって製糖法が実用化され、1801年、ドイツにてん菜糖工場が設立されました。
その頃、ヨーロッパはフランス皇帝ナポレオンの時代でしたが、1806年、彼は産業革命を進めていたイギリスを追い込むため、ヨーロッパ諸国にイギリスとの貿易禁止令を発しました(大陸封鎖)。
イギリスから砂糖を輸出していたヨーロッパ各国は砂糖不足となり、価格が高騰したことから、各国は新技術であるてん菜糖業に注目し、ナポレオンも生産を奨励したために一気に発展していきました。

4 世界の砂糖需給の現状

世界の砂糖産業は発展を続け、1900年代に入ると、甘蔗からの砂糖生産は1,000万トンを、てん菜からの生産は800万トンを超えました。
その後、2度の世界大戦や世界的恐慌で一時的に減産となる時期もありましたが、第2次世界大戦後は大幅な増産が続き、2021年の世界の砂糖生産は、甘蔗からの生産が約1億3,100万トン、てん菜からの生産が約3,400万トンの合計1億6,500万トン余りとなっています。
現在の世界2大砂糖生産国は、ブラジルとインドです。ヨーロッパ(EU)は砂糖政策の転換により生産が減少し、かつての大生産国キューバも経済状況の悪化により減産となっています。
21世紀に入り、地球環境対策が推進される中、甘蔗を原料とするバイオ燃料が注目され始めました。ブラジルは甘蔗の大生産国であることからバイオ産業が急速に発展し、甘蔗が砂糖、バイオエタノール両方の生産原料に充てられることから、その仕向量が砂糖の世界需給に大きな影響を及ぼしており、原油相場の動向と相まって、砂糖の世界需給と国際相場の重要な変動要因になっています。

第2章 日本の砂糖伝播の歴史

1 日本への砂糖伝播

我が国に砂糖が伝わったのは8世紀、奈良時代とされています。中国・糖の僧侶で奈良・唐招提寺の創始者である鑑真が中国から持ち込んだという説や、当時の遣唐使が持ち帰ったという説がありますが定かではありません。しかし、正倉院に保存されている、大仏に献上する薬の目録『種々薬帳』に、砂糖を意味する“蔗糖”(しょとう)と記されていることから、砂糖が薬として扱われ、貴重な存在であったことが窺えます。

正倉院宝物『種々薬帳』
砂糖を示す「蔗糖」の文字がみえる。

2 平安~鎌倉~室町・戦国時代

平安時代から鎌倉時代初めにかけて砂糖は引き続き貴重な存在で、ごく一部の上流階級のみ知るところであったと思われますが、鎌倉時代の終わりから室町時代になると、中国との貿易が徐々に増えていき、室町幕府3代将軍足利義満の時代には中国明朝との貿易が盛んになり、砂糖も輸入されました。
当時流行った「茶の湯」に使う菓子として、「砂糖饅頭」、「砂糖羊羹」の記述が史料に残されており、8代将軍足利義政が、禅僧のもてなしに羊羹を振る舞ったとの史料もあります。更に、当時の生活を描いた絵巻には、饅頭が市場で売られている様子が描かれており、まだまだ貴重品であった砂糖ですが、一般市民に少しずつ近づいてきたことが窺えます。
そして、1543年のポルトガル人の種子島来航とその後の南蛮貿易は砂糖の伝播に大きな影響を及ぼしました。当時のキリスト教関係の史料には、カステラ、コンペイトウ、ビスケットなど、今でも存在する砂糖菓子が持ち込まれたことが記されており、戦国武将の織田信長は、来日した宣教師ルイス・フロイスからコンペイトウを贈られたとされています。

3 江戸時代

南蛮貿易は江戸時代になっても続いていましたが、1637年の島原の乱を機に採られた鎖国政策は、砂糖の流通にも大きな影響を与え、鎖国後の貿易拠点となった長崎・出島の名を取って、当時輸入された砂糖は「出島砂糖」と呼ばれました。
17世紀、江戸中期になると、砂糖の輸入と引き換えに輸出されていた銀や銅などの鉱産物が枯渇し始めました。そこで幕府は国内での砂糖生産に取り組むことを考えはじめます。
日本で砂糖がつくられたのは17世紀の初め、薩摩国大島郡(現在の奄美大島)での黒砂糖製造が最初と言われています。その後、琉球国でも黒砂糖の製造が始まり、17世紀後半になると、これら地域での砂糖生産が本格化し、薩摩国大島郡を治める島津藩は、砂糖からの収益で財政を立て直すべく、甘蔗生産に取り組みました。また、薩摩国以外にも、気候の温暖な西日本の諸藩は、砂糖を戦略物資として重視するようになりました。
18世紀に入ると幕府も砂糖生産を奨励するようになり、8代将軍徳川吉宗は薩摩藩の家臣に教えを受け、江戸城内で甘蔗栽培に取り組んだと言われています。また、西日本の諸藩も競って砂糖生産に乗り出し、現在も製造・販売されている和三盆糖は、当時の阿波国・讃岐国で始まったとされています。
そして、江戸後期になると、商業中心地である大坂(大阪)では砂糖問屋が多く見られるようになり、全国に流通されました。江戸時代も末期になると、「駄菓子」などを通じ、一般市民の間にも砂糖が少しずつ拡がり始めました。

4 明治時代~昭和初期

明治時代となり、鎖国政策が終わると、海外の安価な砂糖が大量に輸入されました。これにより、国産の砂糖は、奄美・沖縄の黒砂糖を除いて一時期大きな打撃を受けましたが、日清戦争での勝利が事態を一変させます。
日清戦争により日本は台湾を領有しましたが、台湾総督府は、技官に就任した新渡戸稲造の意見をもとに、甘蔗栽培が盛んな台湾経済の基盤を「製糖業」に置く方針を据え、台湾に近代的設備を備えた大規模な製糖工場(原料糖工場)が、内地に精製糖工場が続々と建設されました。
そして大正時代になると、製糖技術の向上や甘蔗の作付量増加によって、砂糖生産量は大幅に増加し、昭和10年代には年間生産量が100万トンを超え、国内需要をほぼ賄える規模になりました。
一方、てん菜糖については、明治時代初め、当時の内務大臣であった松方正義がヨーロッパ視察時に製造法を知り、北海道で製造を試みましたが、てん菜の不作や経営の失敗などで、なかなか定着に至りませんでした。軌道に乗ったのは昭和に入ってからで、昭和10年代に生産量はようやく4万トン台に達しました。

5 第二次世界大戦による影響

我が国の砂糖産業は昭和10年代に入り、自給率がほぼ100%となるまでに発展しましたが、一方で世の中は、日中戦争から第二次世界大戦へと進み、戦時体制下となります。
そのため、台湾からの砂糖輸送が困難となり、1940(昭和15)年、砂糖は配給制となりました。このため、前年に年間17kgに迫るところまで増加した一人当たり消費量は、1944(昭和19)年には2.9kg、終戦年の1945(昭和20)年にはわずか0.6kgにまで落ち込みました。
敗戦によって台湾を失った我が国の砂糖産業は壊滅状態となり、国内の備蓄も底をつきました。その後、砂糖の配給が再開されましたが、軍需用や占領軍が提供した僅かな量であったことから、ズルチン・サッカリンといった人工甘味料が代替品として使用されました。その結果、1947(昭和22)年の一人当たり砂糖消費量が0.36kgだったのに対し、人工甘味料のそれは2.9kgという現象が起きました。

6 戦後日本糖業の復興

1947(昭和22)年後半以降、キューバからの砂糖配給が始まりましたが、砂やゴミなどが混ざっていたことから、政府からの要請で1947~1948(昭和22~23)年にかけて、いくつかの小規模な精糖工場が稼働しました。
そして、1952(昭和27)年、砂糖の配給制が廃止となりますが、貿易のための外貨保有高が限られていたことから、粗糖(原料糖)の輸入量は、各精糖会社の設備能力を基準として振り分けられる「外貨割当制」により決められることとなりました。そのため、精糖各社は競って工場の新設・増設を行い、その結果、精糖能力は大きく向上しました。
一方で、需要に対応する外貨が不足していたことから、砂糖価格は高止まりが続いたため、精糖各社は大きな利益を上げました。1955(昭和30)年前後には、「三白(さんぱく)景気」として、砂糖産業はセメント・硫黄とともに花形産業の1つに数えられました。

7 粗糖輸入自由化と糖価安定制度の確立

しかし、外貨割当制によって生み出される高収益が問題となり、政府は、1963(昭和38)年8月31日より、粗糖輸入を自由化しました。ところが、今度は粗糖の輸入価格が国際相場の影響を受けて乱高下したことから精糖会社の経営は不安定になり、国内のサトウキビ、てん菜農家などへの保護政策にも影響が及びました。
そこで政府は、1965(昭和40)年、糖価安定法を制定し、輸入原料糖への調整金・関税の賦課による国内産糖と価格均衡によって砂糖の安定価格・安定供給を図る政策を採りました。この基本的考え方は現在も続いております。

8 現状

我が国の砂糖需要は昭和40年代後半には年間300万㌧を超えましたが、昭和50年代に入ると、デンプンを原料とし、砂糖より安価な「異性化糖」が出現して砂糖需要を侵食しています。更には、平成に入ると、海外で砂糖と他の原材料(コーヒー、小豆、乳など)と混合することで安価な関税で輸入できる「加糖調製品」の輸入が急増し、本来の砂糖需要は減少が続いています。

出典
図1、図2:「LE SUCRE ET SON HISTORIE」『CHANTIER D.HISTORIE VIVANTE』
図3:東大寺正倉院蔵

pagetop